府内戦紙の誕生
昭和60年、大分商工会議所青年部発足4年目を迎える年、地域商店街の活性化について協議する中、他県の有名な祭りに比べて大分市の祭はメインとなるものがなく、新しい文化をつくるべきだ!!と若者の立場から夏祭りを検討し、全国の祭を研究した。
目標は10年で街の文化となる祭を創ること。 大分商工会議所青年部は青森の『ねぶた』を基に大分らしさと躍動感を加えようと独自で電飾の山車を作成し『大分七夕祭り』の市民みこしに1基で参加した。 当時の市長佐藤益美氏が、子供の頃遊んだ『ぱっちん』(めんこ)の絵柄の様だと評したことから『府内ぱっちん』と命名される。
府内とは、大分市中心部の昔の呼び名である。
府内戦紙の歴史
●1基での参加(昭和63年・第4回府内ぱっちん)青年部の必死の呼びかけに、朝日ソーラーの林社長(現会長)、JRが答えてくれた。府内戦紙は商工会議所青年部を含め参加3団体となる。現在の府内戦紙スタイルのスタートとなる。
●市民からの独立(平成元年・第5回府内ぱっちん) 行政の呼びかけもあり、一気に12基の参加となり、府内戦紙として独立した時間枠での実施となる。
●お囃子・踊り(平成2年・第6回府内ぱっちん)もっと充実した祭りにするお囃子と踊りを創作。 『どこでんここでんセイヤ、セイヤ!!だれでんかれでんセイヤ、セイヤ!!』と現在の府内戦紙スタイルの完成に近づく。
●府内戦紙の確立(平成5年・第9回府内戦紙)参加団体21基、ケーブルテレビでの全国放送が開始され、夏祭りの大きな位置を確立する。「戦紙」という字が採用されたのもこの年。
●終日府内戦紙(平成10年・第14回府内戦紙)この年がきっかけで毎年8月第一金曜日のメイン行事となり、「大分七夕祭り」の1日を独占することになる。
●子供戦紙(平成13年・第17回府内戦紙)オープニングセレモニーにおいて8団体550名の子供達による子供戦紙が初めて実施。将来の府内戦紙を担う子供達の踊りが披露される。
●一般市民参加(平成14年・第18回府内戦紙)個々の市民参加による長年の夢であった一般市民参加が青年部の発想で現実となる。初年度300名の予定枠に対して大幅な応募があり、350名による運行となった。
●そして今日へ大分七夕祭りの一環としてスタートした府内戦紙だが現状観客動員九州一円より25万人(大分市発表)の集客が大きな経済効果をもたらしていると考えられる。