<府内戦紙のはじまり>
昭和60年、大分商工会議所青年部発足4年目を迎える年、地域商店街の活性化について協議する中、他県の有名な祭りに比べて大分市の祭りはメインとなるものがなく、「 新しい文化をつくるべきだ ! ! 」と若者の立場から夏祭りを検討し、全国の祭りを研究した。
「目標は 10年で街の文化となる祭りを創ること。」
大分商工会議所青年部は、独自で電飾の山車を作成し、「大分七夕祭り」の市民みこしに1基で参加した。当時の市長 佐藤益美 氏が、子供の頃遊んだ「ぱっちん」(めんこ)の絵柄の様だと評した事から“府内ぱっちん”と命名される。府内とは、大分市中心部の昔の呼び名である。
【一基での参加】
昭和63年・第4回府内ぱっちんにおいて青年部の必死の 呼びかけに、朝日ソ―ラーとJRが答えてくれた。府内戦紙は商工会議 所青年部を含めて参加3団体となる。 現在の府内戦紙スタイルのスタートといえる。
【市民みこしからの独立】
平成元年・第5回府内ぱっちん、行政の呼びかけも あり、一気に12基の参加となり、府内戦紙として独立した時間枠での実施となる。
大分七夕祭りの一環としてスタートした府内戦紙だが、現状観客動員九州一円より25万人(第18回・大分市発表)の集客が 大きな経済効果をもたらしていると考えられる。大分ケーブルTV全国放送では全国からハガキやFAXにて暖かい評価を得、参加団体も第21回時点で市民参加2団体を含む、21団体となり名実ともに大分市の代表的な祭りとして位置付けられている。
50年・100年と残していくために、子供から大人までだれもが気軽に参加でき、市民の皆さんがもっともっと楽しめるよう、府内戦紙実行委員会では一年中話し合いを続けています。